X(旧Twitter)を見ていると、信じていることに疑問をもつ心が必要だと感じる。
「論破」という言葉をYouTubeあたりで流行らせた輩がいるようだが、Xでもやたら「論破」というものがいる。相手の主張に相手が矛盾を感じてこその論破だ。相手のことは構わず自分の主張を展開し、それに答えなければ「論破した」と訳のわからないことを言っている。まるで中学生のように幼稚だ。前提が違う場合、議論はできない。議論もないのに「論破」という。呆れかえるしかない。
ここで重要なのは前提だ。議論を交わすとき、それぞれが前提を信じている。前提が違えば前提を確認する。前提確認の際に相手の前提と突き合わせ、自己の前提に誤りはないのかを考えることができるかが、その人の教養だろう。
文系だろうが理系だろうが理論構成ができるかどうかで、信じていることに疑問をもつ心を育てることができる。わからなければ知識を得ようとする。だが、戦後80年の教育は日本国民に「信じていることに疑問をもつ心」を削いできた。しかも日本のためではなく、アメリカ軍のためにされた教育だ。その教育は今も続いている。そして個性、自由、人権などと声高に個人主義が正義だとし「今だけ、カネだけ、自分だけ」が価値をもち跋扈する。平等という名の元で自由競争がまかり通り、カネという物差しで競争の勝ち負けが決まり、勝ったものへの羨望のまなざしが当たり前となった。
日本国民は分断されることに慣れ、ホモサピエンスが最も力を発揮できる連帯を捨てている。孤独は進み敵意を増幅させる日本国民に救いはあるのだろうか。日本国民は孤独の中で亡国を待つだけなのか。まだ諦めるには早い、しかし、このままアメリカ軍のいいようにされていてはいけない。勤勉と隣人を思いやる日本国民を思い出そう。疑問をもち学び行動を起こせば、それぞれが孤独から這い出し隣人に感謝して再び連帯を取り戻すことができる。
まずは学ぼう、できるなら有償の学びをお勧めする。選択を間違うかもしれない。だが、疑問をもつことができれば良しとする。疑問の解答を求めて行動に移す。人と交わり、人の考えを否定せずに理解する。理解して違えるところがあれば、違う点を礼儀をもって掘り下げる。たとえ相容れないとしても人として認め合うことができるだろう。認め合うことができれば妥協点を見つけることができる。そして連帯は育まれる。学びは行動となり連帯を生む。連帯はコミュニティを創り、日本は国民国家として成立する。10年、20年かかるかもしれない。人の繋がりは一朝一夕にはいかない。だが希望は持てる。希望を持つことが大切だ。
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